辨 |
ササゲ属 Vigna(豇豆 jiāngdòu 屬)については、ササゲ属を見よ。 |
東アジアで栽培されている食用のマメについては、まめを見よ。 |
訓 |
「和名あづきハ其語原能ク判然セザレドモ、古書ニ赤小豆をあかつきト訓マセシモノアリ、又あかつぶき(赤粒木)ノ意ニ非ズ乎トモ謂ヒ、又あつき(赤粒草)ナリトモ謂ヘリ」(『牧野日本植物図鑑』)。 |
『本草和名』に、赤小豆は「和名阿加阿都岐」、腐婢は「和名阿都岐乃波奈」と。
『倭名類聚抄』20 赤小豆に「和名阿加安豆木」と。
小野蘭山『本草綱目啓蒙』に、「赤小豆 アカアヅキ和名鈔 小角草和書 サゝリグサ歌書 アヅキ」、「白豆 シロアヅキ シヤボンノマメ」と。 |
漢名の小豆(ショウトウ,xiăodòu,しょうず)は、大豆(ダイズ)に対して云う。種としてのアズキの漢名は赤豆(セキトウ,chìdòu)・赤小豆(chìxiăodòu)。 |
本山荻舟『飲食事典』に、「早生・中生・晩生の三種に区分され、・・・大粒のものには赤の大納言、斑入(フイリ)の鼠小豆、雉小豆、鶉(ウズラ)小豆などがあり、中粒または小粒には、白莢または黒莢と呼ばれる赤小豆、あるいは濃赤・淡赤・帯紫赤・黒白斑などのものがあり、極小粒には緑色・緑褐色で、サナリとよばれるものもある」と。 |
説 |
四川・雲南原産か。ヤブツルアズキを栽培化したもの、広く東アジアで栽培。 |
漢土では紀元前後から栽培されていた。日本では、農耕の開始とともに栽培されたものといわれる。 |
誌 |
中国では、次のものの乾燥した種子を赤小豆(セキショウトウ,chìxiăodòu,せきしょうづ)と呼び、薬用にする(〇印は正品)。『中薬志』Ⅱ/142-147 『(修訂)中葯志』Ⅲ/387-392 『全国中草葯匯編』下/308
〇アズキ Vigna angularis(Phaseolus angularis;赤豆・赤小豆・紅豆)
〇ツルアズキ Vigna umbellata(Phaseolus calcalatus;赤小豆・藿)
トウアズキ A. precatorius(A.abrus,Glycine abrus;相思子・紅豆・
郎君子・美人豆・唐小豆・赤小豆)
キマメ C. cajan(C.indicus;木豆)
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古く先秦時代には、菽(シュク,shū,まめ)とは ダイズであったという。
後に『周礼』鄭玄(127-200)註などには 大小の豆を区別しているので、このころからアズキ(小豆)が栽培され始めてダイズ(大豆)と区別されたと説かれる(ただし、たんに大きいマメと小さいマメを区別しただけだ、とする説もある)。
まめを見よ。 |
漢代ころの風俗として、正月元旦(或いは月半・七日・歳暮・七月七日などともいう)、14粒(あるいは7粒)のアズキを井戸の中に置き(或いは飲み)、疫病を避けた(賈思勰『斉民要術』引『雑五行書』など)。 |
日本では、米と一緒に炊いて赤飯とし、また餡を作るなど、固有の文化の中に深く溶け込んで利用していること、世界に他の例を見ない。 |
あん(餡)は、『言海』に「あん(餡) 〔字ノ宋音ト云〕 (一)あづきヲ煮テ、擂リテ粉トシ、漉(コ)シテ皮ヲ去リ、砂糖ニ和シテ、再ビ煮タルモノ、餅ニ包ミ、團子ニ塗(マブ)シ、或ハ溶シテ汁粉トス、漉サザルヲつぶしあんト云フ、云々」と。なお、「戦国時代に食料としての砂糖が渡来する以前は、すべて塩餡であった筈だ」とも(本山荻舟『飲食事典』)。
漉して皮を取り去ったものを漉し餡・練り餡と呼び、粒のままか、潰しても皮を取り去らず残したものを粒餡・潰し餡・田舎餡などと呼ぶ。また、白小豆を用いて作ったものを白餡という。
〔ただし、漢語の餡(カン,xiàn)は意味が異なり、餃子や饅頭の中身、具を言う。〕 |
おぐらあん(小倉餡)は、アズキの漉し餡に、煮た大納言アズキの密漬を粒のまま混ぜたもの。小倉餡という名は、その様子を鹿子斑(カノコマダラ)に見立て、鹿と紅葉の縁から「小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ」
(藤原忠平、『拾遺集』『百人一首』)という歌の、「今ひとたびのみゆき待たなむ」に託して、その美味をことほいだもの(『飲食事典』)。
かのこもち(鹿子餅)は、「餡をまぶした餅の上にさらに密漬の煮小豆を着けたもの」(『飲食事典』)。
くりあん(栗餡)は、クリの含ませを細かく砕いて白餡に混ぜたもの。 |
しるこ(汁粉)は、小豆餡を汁として餅をいれたもの。江戸では、餡は漉し餡を用い、切り餅を焼き入れて、汁粉という。京阪では潰し餡を用い、丸餅を煮て入れ、ぜんざい(善哉)という(『守貞漫稿』)。 なお、善哉は、出雲の神在餅(ジンザイモチ)の転訛ともいう。 |
「あづきめし(赤豆飯) 煮タルあづきヲ、米ニ交ヘテ炊ギタル飯、色、紅ナリ。アカノメシ」、ただし今日の赤飯(せきはん)は「今、專ラ、赤小豆(アヅキ)ヲ加ヘテ蒸シタル強飯(コハメシ)」と(『言海』)。 |
『古事記』上に、須佐之男命(すさのおのみこと)に殺された大気津比売(おおげつひめ)の体から五穀が生じたという。すなわち「故(かれ)、殺さえし神の身に生(な)れる物は、頭に蚕生り、二つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰(ほと)に麦生り、尻に大豆生りき」と。
『日本書紀』神代第5段一書第11に、保食神(うけもちのかみ)に関わる同様の説話が載る。 |
平安時代には、旧暦正月望日(15日)に「七種粥(ななくさがゆ)」(望粥,もちがゆ)を食った。
『延喜式』(927)によれば、これは 7種の穀物(米・アワ・ヒエ・キビ・アズキ・ゴマ・村子(みの,ムツオレグサ))で作った粥。
清少納言『枕草子』(ca.1008)3に、「十五日、せく(節句)まゐりすゑ、かゆ(粥)の木ひきかくして、家のごたち(御達)女房などのうかがふを、うたれじとようい(用意)して、つねにうしろ(後)を心づかひしたる・・・」とある「かゆの木」とは、粥杖(嫁叩き棒・はらめ棒)とも呼び、望粥を炊いた木。これで女の尻を打てば子宝に恵まれ、引いては豊作をもたらすという。 |
望粥の習慣は、今日まで 小正月(正月15日)の小豆粥として遺る。
平安時代においても、紀貫之『土佐日記』承平5(935)年正月15日の條に、土佐の大湊に泊っていた著者はわざわざ「けふ(今日)、あづきがゆに(煮)ず」と記している。 |
諺に「小豆は馬鹿に煮らせろ」とは、小豆は煮えにくいものなので、気長に煮るのがよい、の意(平野雅章『食物ことわざ事典』1978)。 |