まこも (真菰・真薦) 

学名  Zizania latifolia (Z. cauducifolia)
日本名  マコモ
科名(日本名)  イネ科
  日本語別名  コモ、ハナガツミ
漢名  菰・苽(コ,gū)
科名(漢名)  禾本(カホン,héběn)科
  漢語別名  茭笋(コウジュン,jiaosun)、菰菜(コサイ,gucai)、蔣(ショウ,jiang)、茭兒菜(コウジサイ,jiaorcai)、茭白(コウハク,jiaobai)、彫胡・雕胡(チョウコ,diaohu)
英名  Fewflower wildrice
2004/07/17 国分寺市恋ヶ窪

 マコモ属 Zizania(菰 gū 屬)には、東アジアに1種・北アメリカに3種がある。
  アメリカマコモ Z. aquatica 
北アメリカ産
  マコモ Z. latifolia(茭笋・菰・茭兒菜・茭白)

  Z. palustris
北アメリカ産
  Z. texana 北アメリカ産 
 イネ科 Poaceae(Gramineae;禾本 héběn 科)については、イネ科を見よ。
 中国では、古くは菰・苽と呼ばれた。下の説欄に記すコモヅノ(菰角)が、瓜の形に似ることから。
 菰菜(コサイ,gucai)・茭兒菜(コウジサイ,jiaorcai)・茭笋(コウジュン,jiaosun)・茭白(コウハク,jiaobai)などの名は、本来コモヅノを指す。
 茭は、その根(葑,ホウ,feng)が互いに絡み合うことから。
 明末の李時珍は、江南人がこう呼ぶという
(『本草綱目』)
 雕胡は、米として食うその種子の称謂、ただし その義は不詳。菰米(コベイ,gumi)とも呼ぶ。
 和名マコモは、たんにコモとも言う。マは接頭辞。
 コモ(薦)の本来の意味は、マコモや藁で編んだ蓆。
 深江輔仁『本草和名』(ca.918)に、菰根は「和名古毛乃祢」、菰首は「和名古毛都乃」と。
 源順『倭名類聚抄』
(ca.934)に、菰は「和名古毛」と、菰首は「和名古毛布豆呂、一云古毛豆乃」と。
 小野蘭山『本草綱目啓蒙』15(1806)菰に、「コモ
和名鈔 フシゝバ古歌 カスミグサ同上 マコモ コモガヤ阿州 マキグサ南部 チマキグサ仙台 コモグサ同上 カツボ越後」と、また19菰米に「マコモノミ ハナガツミ カツミ奥州」と。
 英名を wildrice(Indian rice) と呼ぶものは、北アメリカに産する同属のアメリカマコモ Z. aquatica あるいは Z. palustris、及びそれらの実。
 広く東アジア温帯・冷帯に分布。中国の長江流域・台湾などでは栽培されている。
 葉は、以て蓆を編み、また屋根を葺く。種子は、外は黒いが精米すると白くなる。これを雕胡(チョウコ,diaohu)・菰米(コベイ,gumi)と呼び、食用にする。
 黒穂病菌の1種 Ustilago esculenta が寄生して、茎の芽の先が 小さいたけのこのような形に肥大化したものを、日本語でまこもだけ・こもづの(菰角)、漢語で茭筍(コウジュン,jiaosun)・茭白筍(コウハクジュン,jiaobaisun)・茭白(コウハク,jiaobai)・茭瓜(コウカ,jiaogua)・茭児菜(コウジサイ,jiaorcai)・菰菜(コサイ,gucai)などと呼び、たけのこと同様にして食用に供する。
 この黒穂菌が胞子をつけて黒変したものを茭鬱(コウウツ,jiaoyu)と呼び、その胞子の粉は 絵具・眉墨として用いた。
 「イネ科の抽水植物はいずれも生活型は似ているが、水に対する生態的特性が少しずつずれており、それが水辺の群落の成帯となって現れる。一般に水の浸るところにはヒメガマ、それに連なってマコモが群落をつくる。これらにおおわれない水面には、サンカクイやフトイが生育する。水ぎわから上はヨシ群落となる。河川の縁にあって、出水時に水に浸るような低地を河川敷(高水敷)というが、ヨシの生育範囲の多くはこのような場所である。やや高いところにはオギが現れる。
 オギとヨシの移行帯では、地下部の広がりがオギは浅くヨシが深い。地上部は混生していても、地下部のすみ分けが成立している。」(沼田真・岩瀬徹『図説 日本の植生』1975)
 中国では、古来菰米は重要な主食であった。
 『周礼』天官に「凡そ王の饋
(みけ)は、六穀を食用にす」とあり、その鄭玄の注に「六穀とは、稌(イネ)・黍(キビ)・稷(キビ)・粱(アワ)・麥(ムギ)・苽。苽は、雕胡なり」とある。
 『礼記』「内則」に、苽食(コシ,まこもめし)の食い方が載る。曰く、雉肉のあつものと合せて食う、と。
 四川・両湖(湖南・湖北)・江浙(浙江・江蘇)など長江流域の水郷地帯は、古来マコモの産地として名高い。
 とくに、太湖南岸にある浙江省湖州(呉興)は 菰城と呼ばれるが、戦国時代の春申君(黄歇)の命名と伝える。また唐代には、会稽(浙江省紹興)の菰が名高かった。
 漢以前には野生品を利用していたと考えられるが、都長安の太液池には栽培されていたらしい。
 『西京雑記』に、「太液池辺は、皆な是れ彫胡・紫蘀・緑節の類なり。菰の米有る者は、長安人謂いて彫胡と為す。葭蘆
(かろ。ヨシ)の未だ葉を解かざる者は、之を紫蘀(したく)と謂う。菰の首有る者は、之を緑節と謂う」と。緑節はこもづのか。また、紫蘀(シタク,zituo)はヨシの嫩葉、いわゆる蘆筍(ロジュン,lusun)か。そうであれば、いずれも食用品である。
 六朝時代には 江南の開発とともに栽培されるようになり、唐代には 菰米を食用にすること最盛に達したという。
 王維「春 賀遂員外の薬園を過る」に、「蔗漿菰米の飯、蒟醤露葵の羹
(サトウキビのシロップにマコモのご飯、キンマ(フウトウカズラ)の実とジュンサイのスープ)」と。同「感化寺に游ぶ」に、「香飯 青菰の米、嘉蔬 緑芋の羹(香ばしいご飯は マコモのお米、けっこうなお野菜は お芋のスープ煮)」と。
 李白「五松山下の荀媼の家に宿る」に、「跪いて雕胡の飯を進む。月光は素盤に明らかなり」と。
 儲光義「田家雑興八首」に、「夏来 菰米の飯、秋至れば菊花の酒」と。
 コモヅノも、古くから食用にされた。
 『爾雅』釈草に「出隧、(キョソ,qushu)」とあり、その郭璞の注に「蘧蔬、土菌
(きのこ類)の菰草中に生ずるに似たり。今 江東 之を啖う。云々」と。
 蘇頌『図経本草』に、「今 江湖陂澤の中、皆な之れ有り。即ち江南の人の呼びて茭草と為す者なり。水中に生じ、葉は蒲葦の輩の如し。刈りて以て馬を秣
(まぐさか)えば、甚だ肥ゆ。春 亦た笋を生ず。甜美にして啖うに堪う。即ち菰菜なり。又た之を茭白と謂う。甚だ歳久しければ、中心に白臺を生ず。小児の臂の如し。之を菰手と謂う。今の人、菰首に作るは 是なるに非ず。『爾雅』に所謂蘧蔬の注に、「土菌の菰草中に生ずるに似たり」と云うは、正に此を謂うなり。故に南方の人、今に至るも菌を謂いて菰と為すは、亦た此の義に縁るなり。その臺中に墨有る者は、之を茭鬱と謂う。云々」と。
 宋代以降は、マコモは コモヅノをとるために栽培するようになり、菰米は救荒食物に過ぎなくなった。
 『宋史』礼志に、景祐3年より「毎歳秋仲月、酒を嘗
(まつ)り稲を嘗る。蔬は茭笋を以てす」と。
 日本では、『万葉集』に詠われる歌は文藝譜を見よ。ここにはいくつかを抄出する。

   真薦
(まこも)苅る 大野川原の 水隠(みごも)りに 恋ひ来(こ)し妹が 紐解く吾は
     
(11/2703,読人知らず)
   苅薦
(かりこも)の 一重を敷きて さぬ(寝)れども
      君としぬ
(寝)れば さむ(寒)けくもなし (11/2520,読人知らず)
   薦枕(こもまくら) 相まきし児も 在らばこそ 夜の深(ふ)くらくも 吾が惜しみせめ
      (7/1414,読人知らず)
   独り寝と 茭朽ちめやも 綾席
(あやむしろ) 緒に成るまでに 君をし待たむ
     
(11/2538,読人知らず)
   畳薦(たたみこも) 隔て編む数 通はさば 道の柴草 生ひざらましを (11/2777,読人知らず)
 
 『古今集』に、

   まこもかる よどのさは水 雨ふれば つねよりことに まさる我恋
(紀貫之)

 西行
(1118-1190)『山家集』に、

   みづ
(水)たゝふ いわ間のまこも かりかねて
     むなで
(空手)にすぐる さみだれのころ
   みなそこに しかれにけりな さみだれて みつ
(御津)のまこもを かりにきたれば
   さみだれの をや
(小止)むはれまの なからめや
     みづのかさ
(嵩)ほせ まこもかるふね(舟)
   五月雨の はれぬ日かずの ふ
(経)るまゝに
     ぬまのまこもは みがく
(水隱)れにけり
   かりのこす 水のまこもに かく
(隠)ろえて かげもちがほに なくかはづ(蛙)
   かつみふく 熊野まうでの とまりをば こもくろめとや いふべかるらむ
     
(五月会に熊野へまゐりて下向しけめに、日高に、
     
 宿にかつみを菖蒲にふきたりけむるを見て)

 『新古今集』に、

   みしまえの 入江のまこも 雨ふれば いとどしをれて かる人もなし
(源経信)
   まこもかる よどの沢水 ふかけれど そこまで月の 影はすみけり
(大江匡房)

 古代に勝見(かつみ)・勝見草・花勝見などと呼ばれた草があった。一般には、これをマコモとするが、ノハナショウブという説・結局は不明とする説などもある。

 をみなへし 咲く澤に生ふる 花勝見(はなかつみ)
    かつても知らぬ 恋もするかも (『万葉集』4/675,中臣女郎)
 みちのくの あさか
(浅香)のぬま(沼)の 花かつみ
    かつみる人に 恋ひやわたらん
(『古今和歌集』14,よみ人しらず)
 みちの國淺香の沼をす(過)ぐ。中將(藤原)實方(さねかた,陸奥守に左遷,?-998)朝臣くだられけるに。此國には菖蒲(あやめ)のなかりければ。本文に水草をふ(葺)くとあれば。いづれもおなじこと也とて。かつみにふきかへけると申つたへ侍るに。寛治七年(1093)郁芳門院(媞子内親王,1076-1096,白河天皇第1皇女)の根合(ねあわせ,端午の節句に,左右に分れて菖蒲の根の長さを競い,和歌を競う遊び)に藤原孝善がうた(歌)に。
  あやめくさ ひくてもたゆく なか
(長)きね(根)の 
      いかて淺香の 沼にお
(生)ひけん
とよめるは。此國にもあやめのあるにやと。年月ふしん
(不審)におぼえしかば。此度(このたび)人にたづねしに。當國にあやめのなきにはあらず。されどもかの中將の君くだり給ひし時。なにのあやめもしらぬしづ(賤)が軒ばには。いかで都のおなじあやめをふ(葺)くべきとて。かつみをふかせられけるより。これをふきつたへたる也とかたり侍しかば。げにもさる一義も侍るにや。風土記などいふ文にもその國の古老の傳などか(書)きて侍れば。さる事もやとてしる(記)しつけ侍る也。
        
宗久『都のつと』(ca.1350-1352)

 あさかの沼にて。
  はなかつみ かつそうつろふ 下水の 淺かの沼は 春深くして
        
道興准后『廻国雑記』(1487)

 等窮が宅を出て五里計、檜皮の宿を離れて、あさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈頃もやゝ近うなれば、いづれの草を花がつみとは云ぞ、と人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、かつみかつみと尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。二本松より右にきれて、黑塚の岩屋一見し、福島に泊る。    
芭蕉『奥の細道』(1694)
 「水薦(みこも)刈る」とは、「信濃」にかかる枕詞。信濃には 薦が生えている湖が多いことから。

   水薦刈る 信濃の真弓 吾が引かば うま人さびて いなと言はむかも
   水薦刈る 信濃の真弓 引かずして 弦
(を)はくる行事(わざ)を 知るとは言はなくに
     
(久米禅師及び石川郎女,『万葉集』2/96;97)
 この「水薦刈」三字を、羽倉信名『万葉集童蒙抄』は「みすずかる」と訓んだ。また賀茂真淵は、「水薦刈」は「水篶刈(みすずかる)」の誤字であるとした。
 それでは、このミスズとは何を指すかについて、有力な説は三つ。
   スズタケ Sasamorpha borealis
   ネマガリダケ(チシマザサ) Sasa kurilensis
   チマキザサ Sasa palmata
 東北ではネマガリダケをスズタケと呼び、信州ではチマキザサをスズタケと呼ぶという。
 後には、「みすずかる」は信濃にかかる枕詞として定着し、今日に至る。

   みすずかる信濃か日本アルプスか 空のあなたに雪の光れる
    
 (北原白秋『桐の花』1913)
 「弱薦(わかこも)を」とは、「かる」にかかる枕詞。
 「刈薦
(かりこも)の」とは、「乱れ」にかかる枕詞。刈ったコモは乱れやすいことから。
  以上の枕詞については、文藝譜『万葉集』を見よ。
 そのほか、「こもまくら
(薦枕)」は、「高い・高」にかかる枕詞。
   いす
(石)のかみ(上) ふる(布留)をす(過)ぎて
   こもまくら たかはし
(高橋)(過)ぎ ・・・」(『日本書紀』16武烈天皇即位前紀)

   水深く利
(とき)鎌鳴らす真菰刈 (蕪村,1716-1783)
 

   真菰草風通しよき池の家の晴れの一日よしきり鳴くも
   真菰風吹きふく風に今日ひと日しづかにあり得しことを思ひぬ
   枯菰に水は動かず底浅の泥明か明かと日あたりにけり
      
(島木赤彦『馬鈴薯の花』1913)
 
   春の雲かたよりゆきし昼つかたとほき真菰に雁
(がん)しづまりぬ
      
(1933,斎藤茂吉『白桃』)
 
 北アメリカ原住民も、かつて wildrice を主要な食料としていたが、その風習は今は洋食の一部に取り入れられているという。

跡見群芳譜 Top ↑Page Top
Copyright (C) 2006- SHIMADA Hidemasa.  All Rights reserved.
クサコアカソウ シュロソウ スハマソウ イワチドリ チダケサシ 跡見群芳譜トップ 野草譜index